10年という節目に迎えた試練。導かれた「創造的休暇」という応え。

私たちは何かを失っただけではない。そこから何かを得なければいけない。

2021年10月、「紀寺の家」は、10周年を迎えます。
これもひとえに、皆様の温かいご支援のおかげと心より感謝申し上げます。
本来であれば、様々な計画を練るところでありますが、ご存じの通り、2020年より人類を脅かす世界規模の難局が訪れてしまいました。 以降、「新型コロナウイルス」という言葉を、ニュースや報道などにおいて目にしない日は一日もありません。 突如現れたそれは、瞬く間に人類から日常や当たり前を奪ってしまいました。「紀寺の家」も例外ではありません。
空室が続き、宿屋としての存在価値を失ってしまい、経営面はもちろん、何よりお客様をお迎えできないことはこんなにも辛く苦しいことなのだという現実を知ることになりました。夢であったら覚めてほしいと思うも、夢ではありません。 まるで役目を終えてしまったかのような「紀寺の家」には、ただただ静寂が漂っていました。
どうしたらいいのか。残念ながら、時間はたっぷりあります。予定もありません。 もし、この問題が終息したとしても、日常は戻ってこないかもしれません。当たり前は、当たり前ではなくなっているかもしれません。色々なことが頭の中で巡ります。
そんな時、まるで導かれるように「創造的休暇」という言葉と出合いました。今まさに、その時と同じ現象が起きているのではないでしょうか。 17世紀、著名な学者、アイザック・ニュートンが経験したパンデミック。そして、ニュートンが故郷へ避難したからこそ「万有引力の法則」を発見できたように、「紀寺の家」でも何か発見できるのではないか。そんな能動的な思考が生まれました。 再度、誰もいない「紀寺の家」へ足を踏み入れてみると、これまでにはなかった感性が芽生えている自分に気が付きました。
昨今、急速なテクノロジーや技術の革新により、物事の良し悪しを「時短」で判断するという風潮を感じます。頼んだものがすぐ届く。検索すればすぐ見つかる。買いたいものがすぐ買える。 旅においても、美しい景色やおいしい食事は、インターネット上に溢れ、行ったつもり、食べたつもり、見たつもりなどの「つもり」現象もしばしば。もちろん、それらによって格段に便利になったこともあるでしょう。
しかし、本当にそれが全て正しいのでしょうか。誰もいない「紀寺の家」には、正しい時間が流れていました。 窓から差し込む朝日、日中には陽光が空間を優しく包み込み、徐々に染まりゆく朱色が夕刻の便りを届けてくれる。その残像による気配を片隅に、群青色から闇へとグラデーションしていき、やがて夜が訪れる。奈良の夜は暗いです。しかし、暗いからこそ、月明かりが美しく星が煌めいています。 ここには、1時間を30分にするような「時短」はありません。正しい時間が正しく流れています。忘れてしまった何かを感じました。

我々は、正しい時間を正しく体感できているだろうか。
正しい食材を正しくいただけているだろうか。
正しいものを正しく使えているだろうか。
正しい自然と正しく共存できているだろうか。
そして、人として正しく生きられているだろうか。

寄せては返す波のごとく、様々な自問自答を重ねました。もしかしたら、自己との対峙によってニュートンも何かを得たのかもしれません。 近道ではなく遠回りをしてみる。表側ではなく裏側を見てみる。角度を変えて物事と向き合ってみる。いつもの場所へひとけを避けて違う時間に訪れてみる。その対象は「紀寺の家」だけではありません。真夜中の社寺、誰もいない山頂、早朝の原始林……。 大袈裟なことではなく、ほんの少し視点を変えるだけで、これまで気付きを得ることがなかった何かに出合えるかもしれません。 庭にある木から落ちるりんごをヒントに着想を得たニュートンのように。 大地の鼓動、風の音、光の陰影、自然への敬意、そして、生きるとは何か。 無だからこそ見える景色、無だからこそ聞こえる音、無だからこそ得られる感受。 その先にある豊かさとは何か……。 人類は、地球上の一生物に過ぎません。そんなことも、こんな時代になってしまったからこそ再認識するきっかけになりました。 これも私にとっては、発見のひとつです。
「創造的休暇」の応えは、人それぞれです。 自身の心に耳を傾け、開眼した世界に気付きを得る体験こそ、「創造的休暇」なのだと思います。 私たちは何かを失っただけではありません。そこから何かを得なければいけません。 10年という節目。様々な想いを、ここに記しておきたいと思います。

紀寺の家 主人 藤岡俊平