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【創造的休暇】人ともに生きる町 角田光代 

21.11.11

奈良って奇妙なところだと、

奈良を訪れるたびに思う。

 

神社仏閣が多いのは

京都や鎌倉と似ているけれど、

それらの規模がいちいち大きい。

 

公園や町に鹿がいるのもへんだし、

夜がびっくりするほど暗くて、

見たこともないのに、

はるか昔にタイムスリップしたような気分になる。

 

奈良は広く、

テーマごとに異なるスポットへの旅ができる。

 

私は以前、万葉の旅や古事記の旅をしたことがある。

範囲が広いので、

車で要所要所を訪ねる旅だった。

 

奈良の中心街を、

テーマも目的も決めずに、

じっくりと歩いてまわるのは、

だから今回がはじめてだ。

 

歩いてみて抱くのは、

やっぱり、奇妙な町だという印象である。

 

宿泊した「紀寺の家」から一キロも歩かないうちに

木々が頭上を覆う森が広がり、

鹿が音もなく歩き、

森の奥には春日大社があり、

その向こうに原生林が広がる。

 

春日大社から奈良公園を突っ切っていくと、

大きな池があり、

池を過ぎるとホテルや飲食店が増えてきて、

あっという間ににぎやかな繁華街となる。

 

繁華街のなかに小学校があり、

神社がありお寺があり、

長いアーケードがある。

 

何を奇妙に感じるのか、

考える。

 

あ、そうか、

人に必要なすべてが、

ぜんぶ等距離にあることだ、

と気づく。

 

人、というのは、

今を生きる私たちが必要としたものばかりでなく、

何百年、何千年もの昔を生きていた人たちが

かつて必要としてきたものも、

すべて、新古の別なく、

聖俗の隔てなく、

大小も広狭も関係なく、

ひとしく配置されている。

 

こうして書くと、

ごくふつうのことのようだが、

でもそんな町はめったにない。

 

世界遺産や国宝や重要文化財が、

町の至るところにあるけれど、

その数の多さは、

旅館や飲食店や雑貨店の多さと、

意味合いとしておんなじだ。

 

どちらも、

この町に生きる人たちが必要とし、

暮らしを支えてもらっている、

拠りどころだ。

 

今と昔、

それもはるか昔の暮らしが、

違和感なく矛盾なく、

ごくふつうに入り混じっている光景は、

そのまま、

未来の町をも浮かび上がらせる。

 

奈良の町を歩きながら、

私は未来を想像している。

 

古きものと今のもののなかに、

未来を生きる人たちが必要とするものも、

ごくすんなりと入りこむのだろう。

 

そのことを、

もっとも体感できるのは、

紀寺の町のある一角、

ならまちとよばれる地域ではないだろうか。

 

道路に面した格子扉と瓦屋根が特徴の町家が、

重要文化財、

登録有形文化財も交えながらずらりと並び、

ある家はごくふつうの民家、

ある家は資料館、

ある家は昔ながらの漢方薬局、

ある家はカフェ、

雑貨店、

酒店と、

まさに今と過去が

「町家」のかたちを借りて入り交じっている。

 

細い路地の先、

行き止まりに見えつつ、

さらに細い路地が左右に走っていたりする。

 

路地から路地を歩いていると、

野良猫になった気分だ。

時空を自在にいききできる野良猫だ。

 

瓦屋根の上に広がる空が

ゆっくりとだいだい色に染まり、

端から紺に変わっていく。

私が見ている夕方は、

百年前の、

千年前の、

もっと前の夕方ときっと同じだと確信する。

 

百年以上も前の建物で、

湯が沸き冷暖房が完備された

今の暮らしを体験できる「紀寺の家」は、

まさに奈良という町をあらわすシンボル的存在だ。

 

障子からさしこむやわらかな朝日とともに目覚め、

おいしい朝ごはんをいただいて、

格子をくぐって外に出て、

過去と現在と未来を自在に歩く。

 

すべての人にとって、

そんな時間は創造的休暇になるだろう。

 

小説家 角田 光代

 

写真:「三間取りの町家」

撮影:okuyama haruhi